「朝顔や青きむらさき事も無げ」 腐阿魔多難禍
有為転変は世の習い、そして今はもう秋?
巷には品種改良された煌びやかな花々が溢れかえっている。
一方市井の花朝顔、その青い短命の花は、子供の頃から毎年そこかしこに、何事もなかったかのように咲き続けていた。
(2014/08/29記)
「路傍にて 向日葵パワー 些(ち)ともらひ」 腐阿魔多難禍
一面の向日葵畑には無論夏の力を感じるが、道端のそれも、梅雨の鬱陶しさに、はたまた世の中への鬱屈した市井の民の心に、ちょっと力をもらえるような気がした。
「声よりも 空蝉にこそ 命見て」 腐阿魔多難禍
ちょっとグロテスクな空蝉(うつせみ)の集団。
空蝉は、古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもので、現にこの世に生きている人間、転じて現世を意味するとか。
それまでの途方もなく長かった7年間の土中の命と、フィナーレである7日間の蝉時雨を繋ぐ蝉の殻にこそ、生きることの意味を思う。
さりとて、短くともフィナーレのある蝉のほうが、陽の目を見ることなく遠からず朽ちていくであろうファーマータナカら凡夫より、各段に豪奢な生であるとも言えまいか。
(2014/07/30記)
「落ちてこそ やがてたわわの 柿青く」 腐阿魔多難禍
梅雨の切れ間の散歩道、青い柿が結構自然落下している。
植物は時節に応じて、いつもギリギリの自己調節をしている。
それでも老体から見れば、未来があることに少し嫉妬する。
青柿と違って、何故か青栗は季語ではないらしい。
「風光り 舞ふ恋人に 影見たり」 腐阿魔多難禍
昔も今も、4月の風と光が好き。
昔は、春が来る度に、新しい何かが芽吹く予感に、心が騒いでいた。
今は、あらゆるものが移ろうこと、光には影もあることを知る。(遅ッ!)
幸せに舞う恋人達を微笑ましく思い乍らも、反面拗ね者の自分がいる。
(2016/04/24記)