Spring festival KURUME

ポスターウォッチング。

久留米三大祭り「スプリングフェスティバル」。

コピーには、
「「文化街さくら祭り」としてコツコツやってきましたが「久留米全体を元気にする!」一大イベントとしてスプリングフェスティバルと名前を変えてアップデートいたします。」
とある。

いわゆる飲み屋街は、時代の流れもありそれにコロナ禍が追い討ちをかけて、一般的には寂れてきていると言われるが、おっとどっこいこの取り組みは、確かなエネルギーを感じる。

文字通り新たな文化の創出であり、街づくりであり、地域起こしなのだと思う。
元同業者仲間として、ひとりの久留米人として、健闘を祈る😍

あとの2つは、「水の祭典」と「鬼夜」かな。





ムスカリ

路傍の花シリーズ「ムスカリ」。

時折山に登る。
最近は専ら低い山をリーダー達に宛がい扶持に用意してもらい、唯金魚の糞の様について行く。
何度か頂きを見上げてはまだまだかと内心落胆するが、大抵はただただ俯いて枯葉や瓦礫や土砂や泥濘の足元を見ながら歩く。

だが、山が(は)高いことを知るために、山に登る必要はない。
(You don’t need to climb a mountain to know that it’s high.)
ブラジルの小説家パウロ・コエーリョの名言だ。

そこにはぽつりぽつりと名も知れぬ草花が咲いていて、いい歳をした穢れ切ったおっさんの心を洗うのである。

同じように、人は人生の道程が辛いことを知るために、人生を歩む必要はない。
ボストンバッグを肩に下げ、WASH HOUSEに洗濯物の乾燥に向かう陽光の道すがらに、「ムスカリ」を見つけた。

非日常の山に入らずとも、下界の足元のムスカリにひとときの安息地を見たというわけである。

それにしても、朝も早よから偶々道を歩いていたら雑草化した可憐な小さな花を見つけたという他愛も無い話を、ここまで膨らませて書く何とも暇というか面倒臭いそんな男もいるという話でもある。

おまけに少しググってみた。
ムスカリの英語名はGrape Hyacinth、ブドウ形の花をつけるヒヤシンスとは言い得て妙。
史上最古の埋葬花とも言われ、今から6万年程前のイラク北部のネアンデルタール人の遺跡で埋葬時にたむけられていた跡があるそう。
又、ヨーロッパでは青い花は悲しみの象徴はとされることが多く「失望」「失意」という花言葉を持つが、その悲しみから立ち直るという意味をこめて「夢にかける思い」とのポジティブな意味も持つ。」
史上最古の埋葬花「ムスカリ」



梅一輪

「梅一輪 二輪三輪 四輪五輪」(字余り)
 腐阿魔多難禍

(解釈)
梅が一輪二輪三輪と、沢山咲いている。
もう七輪もいらないくらい暖かくなったことよ。

梅には「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」という代表的な句がある。
芭蕉の弟子である服部嵐雪が詠んだ句である。
しかし、令和の風雅人によって新たにこの句が詠まれたからには、その地位を完璧なまでに打ち砕くことになろう。



決行

もう思い出せないくらい長いこと、義理さえ来ないモテない駄目親父共よ、今日は決行の日である。

行きつけの密かに想いを寄せるかわい子ちゃんのいるコンビニ、そう、毎日その娘に会う為にわざわざ要らないものを買って散財しているあのコンビニである。

1. そのコンビニでとっておきのチョコ🍫を選ぶ。
2. その娘👧がいるレジで「袋は要りません」と言って会計する。
3. お金を払ってから、チョコ🍫をカウンターに置いたまま店を出る。
4. その娘がチョコ🍫を持って「お客さん!」と走って追い掛けてくる。
5. 渡されたチョコ💕を受け取って「え?僕に?」と照れる。

そういう日だ、幸運を祈る。

なお、何故か禿げた小太りの男性店長が追いかけて来た場合における新たなストーリー展開については、自己責任でお願いする。



大寒波

大寒大寒波 腐阿魔多難禍

第七十一候は「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」。
身も心も懐も寒いのである。
それでも春は近いのである。

画像は裏宝満難所ヶ滝 2018/01/28。





絵馬

絵馬ウォッチング。

古代、神様は神馬(しんめ)という馬に乗って人間界にやって来た。

やがて神事の際に馬を献上する風習が始まり、それが個人的な動機による神仏への願掛けとして、絵馬の奉納と形を変え現在に至っている。

改めてこのうさぎの絵馬を見てみよう(何でも鑑定団風)。

遠目にただ可愛いだけで通り過ぎてしまいそうだが、是非ピンチアウトしてみてほしい。
通常は願い事が神様に見えるように飾るのが本来の作法らしいが、ここには願掛けした人の数だけのそれぞれ違った表情があった。

私にはそれらのうさぎの視線の先には、少なくとも未来があるように思えた。

七難即滅 七福即生。
一攫千金 大盤振舞。



一年の計

「一日の計は晨(あした)にあり、一年の計は春にあり」と言う。
年老いても決意新たにしようとするあたりは、我ながら根が真面目なのだろう。
まず前提として、人間の本質を見極めるところから始めるのが筋であろう。
するとなかなか計が立てづらい現実が浮かび上がってくる。

たぶん悟りの境地も近い。